2012年06月07日

おしゃべりな光太郎に出会った。


・・・ のは、先月下旬の日曜日。

観たお芝居の話。

しゃべるしゃべる高村光太郎、語る語る高村光太郎。

(自分勝手な)イメージと違ったけれど、 ・・・ でも まぁ、寡黙の人だって
脳内では結構おしゃべりですよね、 ・・・ 多分。

  わたしの手は重たいから
  さうたやすくはひるがへらない。
  手をくつがへせば雨となるとも
  雨をおそれる手でもない。
  山のすすきに月が照つて
  今夜もしきりに栗がおちる。
  栗は自然にはじけて落ち
  その音しづかに天地をつらぬく。
  月を月天子とわたくしは呼ばない。
  水のしたたる月の光は
  死火山塊から遠く来る。
  物そのものは皆うつくしく
  あへて中間の思念を要せぬ。
  美は物に密着し、
  心は造型の一義に住する。
  また狐が畑を通る。
  仲秋の月が明るく小さく南中する。
  わたくしはもう一度
  月にぬれた自分の手を見る。

ちょうどこの詩を詠った時は、花巻の片隅で独居自炊の生活を送っていた頃。

そこで過ごした濃密な“間(あいだ)”を見事に作品にしたような見事な作品。

その後の塑像作製へと繋がる高村光太郎の生き様がヒシヒシとココロに響きました。



  ・

  ・

  ・



(話はそれます)
 

ある日、とある小学校の先生に引率された児童が小屋を訪れます。
光太郎は笑顔で迎え、子ども達の頭を大きな手で撫でながらお菓子を振る舞います。
その大きな暖かな手・あふれる優しさ・とびっきりおいしい味。
子ども達はココロを奪われます。
東京から来た偉い先生が語りかけるコトバは子ども達のココロに深く刻まれます。
それと同時に、その瞬間の光太郎の生き様も子ども達に伝播したようです。

多分、ヒトはそんなコトもDNAに記録(記憶)するのではないでしょうか。

DNAを引き継いだ自分は(今回の芝居の)光太郎が自分の様に思えました。

あと、

(今回の芝居での)智恵子の表し方が生々しくてよかった。

でも、

もっと生々しくてもよかったと思った。






120607.jpg






とても素敵な名作です。


 (*^_^*)





posted by ファクト君 at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々生活のエスキース
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/56307280
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック